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●「半分」というのは、とても奇妙な数え方だ
といつも思う。もし私が2歳だとしたら、人生の半分を外国で暮らしている、と言っても、たかだか1年間日本を離れていたということになるわけだけど。
24歳の私の人生の半分となると、これはちと長い気がする。 今どき留学生だの外国暮らしなどといっても、珍しい時代じゃないけれど去年ついに10年を越したとき、おっと思いました。何がおっなんだか自分でも不明だけど。
「おい、あんた何で米国に10年もいるのよ」と問われ「お父様の海外赴任で」とか「英語の勉強のためよ」とか言えば格好もつくけど・・
●もうちょっと突っ込んで言うと
あれはバブルのころの事。この繁栄が永遠に続くと思った人って意外と多いらしいんだけど「何となく変だなあ」と居心地悪くいた人たちだっていたでしょう。それなんだと思う。うちの家族は。私が日本を離れたころバブルも、頂点にたっした日本の過剰なまでの自信に家族みんな
(と言っても、両親と私の3人) 何か、とり残されたというか、奇妙な落ち着かない生活をしていたのは事実だったと思う。11歳になったばかりの私に、そんなことはわからなかったけど。
●私は、どこにでもいるちょっとピアノのうまい子という感じ
だったかなあ。もちろん子供だって人生アップダウンは激しいのは世の常で、何をやってもスイスイという絶好調のこともあれば、登校拒否だって、いじめだって経験したという、まあ人並みの子供だった。その頃の日本の教育の、私には理解し難かった「平等制度」で、自分自身を失う毎日に悩み・・・ちょうど、私が絶不調の中学生活を送っていたころかな。逃げ足の早いことを得意技に持つ両親は「このまま日本で闘うなんてことは疲れる。いっそのこと家族そろってアメリカに行っちゃおう」なんて突然考えたわけです。 うそみたいだけど、本当の話です。
●着いてからの苦労話なんて、聞くのも嫌
だろうけど、言うのも嫌なものです。もちろん合法的に滞在するわけなので、父はまた学生に逆戻りして。まあ、父は原書を楽に読みこなしたいという目標があったから、そちらはいいとして、みじめなのはこの私。ともかく言葉が出ない、というか、単語もろくに知らないんだから、1年間は聞くも涙、語るも涙の物語なのかもしれない。なのかもしれないというのは私はずっとクラスで折り紙したりして、ともかく時間を潰しているだけだったから。だって、突然ドイツ語とかもとらされて、英語だってオヨヨなのに何の気力も出ないというものよ。
●ただ、米国の学校のすごいところは
そんな私にちゃんと一人学校で家庭教師をつけてくれて、折り紙少女の私に対して一度も親が学校から注意されることなんかなかったってことです。これすごいと思う。で、つまらないから学校でピアノを弾いていたら、何だか手を引っ張られ、知らないうちにオーディションしていて・・・今の私がここにいます。
●別にだからといって、ずっとピアノ少女というわけでもなく
絵をかいたり彫刻したり、やっと英語にも慣れてきて。中学時代は何とか過ぎました。高校に入ってからは、結構楽しかった。ビデオ作成は、私にとって将来にもかかわるほどのインパクトがありました。書きたいことは沢山あるけれども、ダレると困るのでカット。一番書きたいことが多い所をカットするのって、結構快感ですね。
●イーストマン音楽学校に入って
そう、皆さんイーストマンなんて知らないかもしれないけど、米国の音大ではなかなかというか、システムも教育も随一の学校なのです。特に教育は、素晴らしい。私は今は大学院生で、ほとんどスカラシップで勉強させてもらっています。私のような外国人に米国の人たちは大変な奨学金を与えてくれているのことに本当に感謝。いつかこのお礼ができるような自分になりたいな、というのが私の目標の一つです。
●アメリカは、今度のテロのことで非難や同情を受けている
けど、私に一つ言えることは、アメリカはアメリカン・ドリームを実現させてくれる可能性を秘めた国であること。今米国にいて、私を育ててくれたこの国に感謝するとともに、この国が大きな過ちに陥らないこと、願っているというのが今の正直な気持ちです。
長くなりました。また書きます。
梢
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